かかびろぐ

大学3年生から書いてます

将来の夢へのアンチテーゼ

「将来の夢」が昔から定まっていた人はすごいのか

小学生の時点で「将来の夢」を掲げていた人はそれだけでなぜか褒められていた記憶がある。

僕は小さなころから興味が様々なことに向かうタイプだった。良く言えば「好奇心旺盛」だが、悪く言えば「飽きっぽい」とか「物事を極めることが苦手」とかが当てはまる。だから僕はやりたいことはたくさんあっても将来の夢は全く定まらない子どもだった。宇宙飛行士や漁師になりたいと言っていた1年後には空中に数式を羅列する天才物理学者に憧れ、図工で褒められて彫刻家に憧れ、小説を読んで酪農に憧れ、薬学に憧れ、時計職人に憧れ、、、思い出せるだけでも10個くらいはそのようなことがあった。だから僕は「子どものころの夢は何でしたか?」と聞かれると答えに困ってしまう。

しかし、世の中には子どものころの夢をそのまま叶えている人も決して少なくないようだ。古い付き合いの身の回りの友人も、学校の先生や調理師や保育士などずっと志していた夢のひとつを今にも叶えようとしている。凄いことだ。将来の夢どころか大学の学部さえ直前まで迷い、結果的に「お前は学部を間違えてる」と度々友人に揶揄されている僕とは大違いだ。

だが彼らを手放しで凄いとは言えないのではないかと最近感じている。様々な業界や職種に対する自分の適性や希望、今後の展望を鑑みて判断したのであれば何も言うことはないが、実際にはそうでもないような気がするのだ。嫌な言い方をすれば、いわゆる「脳死」で「自分は〇〇になるんだ」と思い込み続けてきた結果ではないのか。本当に大海のように目前に広がるたくさんの選択肢の中から熟慮して、それでもなお他の何にも負けずに揺らがない選択だったのか。もちろん中には「そうだ」と胸を張れる人もいるだろうが、必ずしも全員が全員当てはまらないのではないかと思っている。

将来の夢が定まっている人の共通点

僕の感覚としては早いうちから将来の夢が定まっている人ほど真面目ではある。ただ同時に周囲の人間の言葉や風潮に同調しているためリスクを取ることはなく、周りが認めてくれるラインで妥協しがちであると思う。そして特に自分を客観視する力が弱く、見識を広げるための積極性や読書にかなり疎い。

憧れで語れるような職業はひとつもないのだから、「将来の夢」なんて多くの場合は所詮偶像だ。たくさんの知見に触れて「そんな人間がいたのか」「自分もこうなりたい」という積み重ねの中で生まれた興味や志をもとに将来の夢が形成されていくべきなのに、安易に子どものうちから「将来の夢」を掲げさせて周りが称賛する風潮は人生のミスリードになりかねない。

人生の選択

自分が一度決めたことを曲げるのは大変だ。多くの人はそれが時間と労力の無駄だと無意識に感じているし、特に将来の夢や大学の学部なんてそう簡単に変えられるものではない。しかし価値観は時間が経つにつれて変化していくはずであるし、「昔から好きだったけど今はもっと楽しいことを見つけた」という"新たな発見"にまだ出会っていないだけでそれはごろごろとその辺に転がっているはずなのだ。

そして現代では仮装通貨取引とかドローン操縦士とか職業自体はたくさん増えているし、今後はリモート医療従事者だとかAI弁護士とか出てくることが容易に想像できる。それなのにまだ社会を全く知らない小中学生の時代から将来の職業をひとつに絞ることは危険ではないのか。誰か周りの大人が他の視点も持つように声掛けしていくことが必要である。

だから頑なに「弁護士になりたい」という子どもがいたら僕はまず引き留めて、話を聞きつつ、今後はAIが弁護士に置き換わるかもしれない、本当に弁護士ではないといけないのか、昔はよかったけれど今後はわからないなどと質問するだろう。そのとき「弁護士になりたい自分は時代が悪いのか」という意見が出るかもしれないが、ああそうだ、そんなものだと僕は答えると思う。なぜならば僕自身もそうなのだから。僕は可能ならば打製石器をつくる仕事がしたかった。ひたすらに石を打って鋭利にしていく仕事、鍛冶屋でも良いかもしれない。しかしどちらにしろ時代が合わないだろうし僕には大局的に見て鍛冶屋になれるほどの覚悟と興味はなかった。そんなもんだろ、やりたいことと現実性を比較する天秤がしっかり仕事しなくちゃ意味がない。