かかびろぐ

大学3年生から書いてます

田舎の学問、京の昼寝

田舎side

比較的田舎で生まれ育ち、小さなころから高校入試を迎えるまで公園でよく遊んでいた。入学した高校は地元では称賛される程度の目立たない学校で、周りは田畑で覆われていた。収穫の時期が終わるこのくらいの季節は下校時に焼畑の煙が通学路に流れこむのどかな場所だった。僕は気に入っていたが、周辺に高い建物は何ひとつなく、はるか遠くの山や夕焼けがはっきり見えるような平坦なところだった。

「あなたたちはこの土地に住み、学んでいる時点で、都会の高校生に勝ち目がないのです。」

これは高校三年生の学年集会で主任の先生が発した言葉で、強烈に記憶に残っている。高校生クイズに出てくる高校は東京や京都周辺ばかりでこの事実には薄々感じていたものの、はっきり言葉にされたことで心底悔しくなった。 駅前には河合塾も東進もあるし、本屋で参考書を買いそろえることもできる。それでも僕たちは関東や関西に生まれてない時点で限界があるというのだ。どれだけ僕たちが努力したところで、首都圏のトップ層には及ばない。環境が違うから。

中学受験の概念なんて存在しないし、成績上位層は塾に行ってない学生の方が多いとか首都圏ではそう起こりえないだろう。塾に一切行かずに、公立中から県立高校に進学し、地元の国公立大学に合格すれば、恐らく近所の中でヒーローになる。しかしそれもきっと首都圏と地元とでは捉え方がまるで違う。

 

京side

就活の情報集めは簡単だ。1dayインターンに行けばいい。大学の課題があるが土日をうまく使えば20社くらいは訪問できる。合説だってちょっと距離があるものの気軽に行ける。一度に多くの企業を比較できて効率が良いから楽だ。好きなアーティストの個展も気になる美術館の企画展も都内だ。このまえ丸の内周辺で印象派の歓談会があると聞き、文学・芸術系の社会人サークルに参加した。多くの大人が自分と異なる多角的な視点を持っていたり、幅広い知識で考察していたりと、全くの畑違いの自分はただ無知をさらしていた。それでもみんな本当に寛容で、このくらい知見も余裕も持った大人になれたらいいな、もっと勉強したいな、と自省と希望を抱いて帰路についた。小一時間で帰宅した。

こちらに引っ越してきてから行動を起こすハードルがかなり下がった。東京やその周辺には探せば”本物”がある。芸術だって学問だって、海外からゴッホルノワールが来るのだっていつも決まって東京近辺だ。しかもその近くには必ずその分野に先立って詳しい人がいる。そういう人と話してみると自分の知らない世界が、生き方が、価値観があって教科書では得られない経験がある。

成長とか経験とかそんな美辞麗句を並べるわけではないが、少なくとも地元にいたら得られていなかった新たな広がりは確実に存在する。「これが環境の違いか」と妙に納得してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

受験のみならず大学生、社会人になってからも田舎と京の格差がある。いやむしろ全国で参考書が出版されている受験の方が公平と言えるかもしれない。海外で有名な店舗が日本初上陸するのも、大好きなアーティストのコンサートも、五輪や万博のような大規模なイベントも、5Gや水素ステーションのような新技術が導入されるのも、多くが東京や大阪だ。

田舎で学ぶことは都で昼寝をするのと同程度だという意味のことわざは、地方が発達した現代では以前と異なる側面において顕在で、今後この先も形は変えながらも残るだろう。大きな集団の中で学問や技術、芸術が発達していく構造的なもの、また市場の規模や多数派による優位性。これに魅力を感じた人間がまた集まり、今後さらに一極集中が加速する。

だからと言ってなんでも京の方が優れているわけではない。学問を究めるだけなら必ず、絶対、確実に京の方が良いが人間の生活はそれだけではない。衣食住や気候、自然とのかかわり、宗教観や土着の文化、人間関係などすべてひっくるめれば田舎の方が住みやすい人は多いはずだ。テレワークが急速に浸透し、学問や仕事の在り方が見直されている今だからこそ、各個人ひとりひとりが「自分の住みやすいところ」を探すべきだろう。