かかびろぐ

大学3年生から書いてます

アルケー

未知のところに飛び込んでみたかった。文学に興味があった。大学在学中は随分とブックオフに世話になった。文系に進めばよかったのではと何度も考えた。

化学が好きだった。目に見えない小さな反応の集合体が目に見える形で現れるのは好奇心をくすぐった。化学を専攻したらよかったかもしれない、そんな未練もある。

突き進んでいたら自分に限界が見えた。だから他のところに発散していた。

 

そうこうしている間、浅いだけの知識が広がるうちに美術に関心を持った。今まで遊びとしか考えていなかった事柄が洗練されるとどのように美しく昇華されるのか。大学生活も終わりに近づいていた。焦りがあると同時に、絶対的なものに近づきたかった。確実なものを手に入れたかった。やれば全知全能にだってなれると心の奥底では本気で信じていた。

 

芸術はイデアと表象の唯一の接点だとショーペンハウアーは述べている。

 

「勉強って楽しいと感じたんですよね。」

自分が知りたいと思った気持ちを満たしてくれる場所に身を置くといい。

東京にふらっと行けるぐらいの場所が良い

そうすればきっと寂しくなくて、適度に孤独で、美しい夜も汚い景色も、手軽に見つけられるんだ。

 

「東京」って名前がつく大学ならどこでも良かった。喉から手が出るほど欲しかったはずの生活は、どこまで行っても「僕」の延長線だった。

 

あの人に会いたい、少しだけでいい。新幹線を使うくらいなら別に会わなくていい。乗り換えが1回で済むなら、何かを話したいわけでもないが、少し。

あの場所に戻りたいとは思わない。あの人とあの時、あの記憶にもう少し浸りたいだけ。

 

記憶は触れないものほど美しい。

日々の逆光で見えなくなった記憶ほど。

盆の日記

1.

世間話くらいならするが、人間関係に関する話は昔から苦手で仕方がない。

昨日実家に帰省した。母から地元の近況報告を聞く。「○○さんが隣のマンションに引っ越してね」「あなたの同級生の△△ちゃんっていたじゃない?あの子がね」「お隣の‪✕‬‪✕‬くんが就職して」

反応に困るから僕はボケーッとした顔で流している。

 

2.

僕が昔過ごしていた部屋はまるごとリフォームされてリビングに吸収された。あのとき使っていた椅子も机もベッドも全部捨てられてしまった。かつての逃げ場がなくなってしまった。

 

3.

僕の普段の生活を根掘り葉掘り聞かれるのもあまり心地よくない。僕の中ではセンシティブな話題で奥底に閉まった出来事も顛末を知らないからずかずかと土足で入ってくる。ぜひやめていただきたい。

 

4.

のんびり過ごしたかったが久しぶりに帰るとそうはいかないらしい。僕の帰省は盆と正月、年二回のイベントだから仕方ないのかもしれない。まあそれはそれでありがたいことだし申し訳ないから、「孝行のひとつなのだ」と自分に聞かせて、あちこち連れ回されることを覚悟する。

たしかに僕は色々と世話をしてもらった割には何も孝行していない。青いままで、ガキのままで、それがかっこいいんだと強がっている。

 

5.

「お姉ちゃんがね」と母が話す。僕の姉のことだ。この前急遽友達を連れてきたらしい。ずいぶんと仲良くなったんだね。数年前までは連絡を全く取らなかったほどなのに。

今となっては僕以外は全員地元に住んでいる。ひとりだけすぐに帰ってこれない場所にいる。

1週間ほど前に夢を見た。実家から去年住んでいた場所に帰ろうとする夢だった。だから目が覚めたとき僕はどこにいるのか全く理解できなかった。ああ、異動したんだっけ。ずいぶんと離れたところに来ちゃったな。

僕が期待していた居心地はもうこの世界にはないのかもしれないな。

仕事について

仕事というのは固定的に賃金が支払われるから良くない、と感じるときがある。何を馬鹿なこと言ってんだと思われるかもしれないが、本気である。

仕事は一般的にはお金を稼ぐために、もとい生活するために、社会に生産した分の対価を貰うものだ。しかしお金を稼ぐために仕事をすると考えると、途端に非合理的な行動を取りたくなる。要は主体性が失われる。なぜなら本来は「仕事」はお金を稼ぐことが目的ではない、「仕事」そのものが目的であり、手段ではないからだ。

サボってもサービス向上に努めても毎月の給与に影響はない。だからここで「目的」を何に据えているかで分かれ道となる。つまるところ目的は内側に向けた方が良い。

 

「すべてにあなたが関われるわけじゃないの」

「どの道を選んでも必ず誰かを傷つけるからねえ」

 

 

建前と本心、選択による不可逆的な喪失に躊躇していたら言われた。しばらく前のことだが未だにふと思い出す。僕はどうしたらいいんですかね、ともう二度と会うことはない人に尋ねたときだった。

 

自分のやりたいことをしたら誰かに迷惑が及ぶ、傷つけてしまう。人間社会にいる限りこれは逃れられない。だからと言って負の環境が続いていくのも健全ではない。

「あなたの好きにしたらいいじゃん」「やめちゃえばいいじゃん」と無責任で無関係な甘言ばかりが目につく現代ではさらにそのバランスを見極めるのが難しい。唆されて思い切ったらお先真っ暗ですじゃあ笑いものだ。

 

何が言いたいというわけではないが、この発言が僕の中の「傷つけてしまう」を抑えていた頑なな呵責をいつの間にか退けていた。「どの道誰かに迷惑をかける」という感覚はあって良いのかもしれない。

誇張

「人が嫌い」と言う人を何回か見たことがあるが実に大人げない。

 

本当に全人類が嫌いならその発言の聞き手は存在しないはずなのに、結局は誰かに聞いてほしいのだろう。「人が嫌い(だけど貴方は良いよ)」と特別感を醸し出して、見かけの価値をあげようとしているのが、構ってほしいのか分からないがひどく陰湿で姑息に感じる。「私、男性って苦手なの」と気になる男の子にぼやくのと同じだ。この言葉の裏にもやはり「貴方は違うけどね」が宿っている。

 

「嫌い」という言葉は楽だ。簡単に相手より立場が上だと錯覚できる。あの人嫌い、と言えば自分にイニシアチブがあるように思える。中学生が力を誇示するために先生に歯向かうのと本質的に変わらない。本当に虚しいことだ。

 

言葉ひとつひとつの細部に本心は表出している。「あの人とは相性が合わなくて」と表現すれば自分側にも責任が生まれている。

Twitterが消えたら

終わりがまことしやかに囁かれている。タイムライン表示数に上限がついたり、フォローしている人のツイートがTLに流れなくなったり、ユーザーが望む形からは次第に離れていっている。

僕がメインで利用しているアカウントは中学生からのもので、最近はあまり使用していないもののそれなりに思い入れがあるというか、学生生活の一端を担っていたと言っても過言ではないくらいに時間を費やしてきた。メタが代わりとなるサービスを開始するらしいが、これが僕にとって同じ価値を提供できることはないだろう。

 

SNSでは普段関わりのない「繋がっているだけ」の人間関係が存在する。昔の親友、高校の友だちの友だち、元恋人、1回だけ見学に行ったサークルで出会った人。今はもう連絡は取らないけれど、時折見かける投稿から近況を知る程度の人。まったく興味はないが、もし彼らが「結婚しました」「地元で店を開きました」などと投稿していたら迷わず「いいね」を送るだろう。そして刹那的でも過去に想いを馳せるかもしれない。

さてもし今後代替のサービスに登録したときに、僕らは彼らのアカウントを探して再度フォローするだろうか。

 

 

全員と再び繋がることはまず不可能に近い。

本当はどうでもいいのだ。昔の知り合いが門出を迎えるなんてどこにでもある話、正直どうでもいい。人生の第三者がそれなりにやっているというだけの、小説の一文にもならないネタだ、僕の人生に寸分の影響もない。だからいつ関係が切れたって構わない。それなのに一抹の不安か、失ってしまう恐怖か、どうかこのまま「繋がっているだけ」の関係が続きますようになんて願う自分がいる。「いつか」「もしかしたら」なんて不安定な甘ったれた弱っちい感情なぞ消し去ったほうがいいのだが、数年連絡を取っていない友人が「〇〇にいる」と近くの場所をいつか投稿していたらきっと返信してしまうに違いない。

 

 

随分と離れたところへやってきてしまった、だから恋しくなるのかもしれない。「思い出は美化されるだけ」と自分に言い聞かせる。