かかびろぐ

大学3年生から書いてます

無理をする

物事には勘所がある。普段は失敗したりふざけたりしても構わないが、決して外せない道理もある。

具体例を挙げれば、公の場で結果を残す、言うべきでないことは言わない、他人の貢献に感謝を示す、、、とか。どこにでもありふれた、実にくだらないことだ。しかしこれは道徳ではなく、ライフハックのひとつに近い。

一般化するならば、『その人の大事な価値観や気持ち、感情を踏みにじらないこと』とでも表せるだろうか。

 

普段はいじられても構わないと考える人も「この人の前では格好良い姿を見せたい」と思う相手はいるはずだ。それを見極めて、少なくともその時だけは当人を立てる言葉を並べられるか。

実務に関わる資格は1発の試験で取得できるか。

自虐を込めて社内の悪口を言い合う職場でも、対外的な場ではそれを持ち込まないでいられるか。

1度でもミスをしたら「前科」がつく。

 

失敗しやすいところで転ばない人間になれば、信頼を得られる。言い換えればたった1回の油断も許されない。無理すべきタイミングで本気の無理をするのである。「このくらいの出来でやってくるだろう」という期待値を毎回超えるんだ。相手の意表をつけ。

周囲からの評価を上手く構築できれば、他のしょーもないところで手を抜いていく。無理せずに、ちょろくやる。できなければ周回遅れでやり直し。

人間の評価なんてそんなもんだ。

ある暮れ

「かびくんはさ、人生の目標とかあるの?」

突然の上司の問いかけに僕は戸惑った。定時を過ぎて職場には僕ら二人きり、適当に流すこともできない。何か言わなければいけない。

「人生の目標ですか」

僕は耳に入った言葉を反芻して、少し間を置いた。

「……人生の目標とは違いますけど『月曜日が楽しみに思える』ようになりたいとは思ってます」

困ったときの定型句だ。仕事での目標とかなりたい姿を聞かれたらこれを答えるようにしている。実際僕の気持ちにも近いし、上司にもウケた。

 

人生の目標か ―――

それから少し考えた。抽象的に言えば幸福追求とか自己実現、憧れの理想像の類だろうか。しかし僕のなりたい姿としては「満たされないまま何かを求め続けること」が当てはまるかもしれない。

そんなことを思いながら白い息を深く吐いて、帰路についた。

素養、品性。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」なんて言葉があるけれど世の中は貴賎で溢れてるが?とツッコんだ福澤諭吉は、それに対して学問をしろと説いている。時代が変わっても根強い"学歴社会"からも分かるように、「人の上にいる人」は模試の成績上位者であることが多い。

ではガリ勉は出世するかと言うとそれが事実に反することは想像に難くない。実際は幅広い知識を持ち、内面的にも優れた人材が出世する。

素養は学習能力と結びつきやすく、知識や思考、好奇心から主立って実る。しかし品性は似て非なるものだ。「人の上」に立つのであれば品性は必要となるが、勉強さえ出来れば身につくものではない。これには心の余裕や想像力、IQではなくEQが必要なんだろう。

しかし、学習能力が高い人間はEQを身につけやすいはずだ。他者を観察して得た気付きを吸収し、行動に落とし込む。この一連の流れは勉強と相違ない。

 

 

何が言いたいかはっきり書こう。

勉強的な素養で完敗した人間に品性で勝つことは難しいのである。そりゃガリ勉の例のような多少の反例はあるだろうが、僕らには「格上の人間」がいて、何をどう足掻いても"そちら側"には上がれないのだ。学外コンペで優勝した生徒会所属の社交的な人間と、教室の隅でスマホゲームに勤しんで時間を潰した僕の間にはれっきとした差がある。素養と品性の完全敗北宣言だ。

それでも高校生の頃はどこまでだって伸びしろが見えた。自分の可能性を無限に信じていた。しかしどうやら少しずつ限界が見え始めたようだ。僕の理解力や読解の速さはこれから飛躍的に伸びることはないし、価値観は簡単に動かない。

内側に答えを求め始めたら、そこが変曲点なんだ。

誰もが自分の居場所を探している

こんな僕もInstagramを見る。友人関係が狭いから頻繁ではないが、代わりに知らない投稿者のリール動画がよく目に入る。その中で心底気に入らないのが、ノスタルジックな音楽とともに田舎や道端の風景を映している動画だ。かなり溢れかえったカテゴリだから見たことがあるかもしれない。

映像と音楽が全くマッチしていないのが、まず気に入らない点のひとつだ。大勢に好まれている曲をスマホで撮影した田んぼや線路の映像に使っているが、盲目的に選曲して一節ごとにシーン切替をしているだけで、気持ち良くなっているようにしか見えない。個人的に好きな曲を見かけた時には侮辱にさえ感じてしまう。

もうひとつは、「ここではないどこか」を探しているようなその素振りが気に入らない。更にこれを否定できないことが僕を心底不愉快にさせる。思えば少なくとも中学生の頃から「僕の居場所はここではない」と信じてかれこれ10年弱生きてきた。僕がいても良いと思える場所はこれから先どこかで見つけられると考えてきた。この僕を構成し続けている腐りかけの個人性を、たかが赤の他人のInstagramのリール動画に「お前は埋没的だよ」とまざまざと見せつけられている。気に入らない。やめろ。

 

しかし安心した部分もある。このカテゴリが盛んになるということは自分の居場所に不満を持っている人が一定数はいるということだ。生きづらいのはみんな同じか、と分かれば心の荷も少しは軽くなったように思う。

レプリカ

自身を好きだと思えたらきっと楽だ。

"イデア"を認識すれば今見ている世界は偽物で、客観的事実など本当の意味で理解のしようがない。そんな世界では本来競争や比較に何の価値もない。

感情や思考の発生事由も所詮主観だ。自己に対するプロパガンダは幸福追及だ。自尊心と自己肯定感を履き違えない限り、この探究こそが社会生活を営む生物としての意義に値する。

挨拶ができない

「君は感情を隠そうとして笑う癖があるね。」
入社から三週間経って人事に指摘された。

 

新入社員は五月半ばまで研修合宿を行い、その後は全国の支社に散らばっていく。だからこの1ヶ月半は知識や業務を覚えることはもとより、同期と仲良くなることも強く求められる。ただ、今のところ僕は若干居心地が悪い。別に同期と仲が悪いとか、お互いに避けているとかは全くない。むしろ関係性自体は一見良好である。

 

理由はわかっている。僕自身から同期に話しかけられないのだ。
僕は、同期がよく会話のネタにしている野球にもM-1にも筋トレにも興味がない。だから自分が興味ある話題を振ろうとしても、「きっと伝わらないだろう」と半ば諦めている。何より関西出身が多く、面白いことを言わなければいけない雰囲気が厭わしい。お酒の場も好きじゃないし、群れるのも嫌いだ。

仲良くなりたいという気持ちはあるものの、既に出来上がっている大きなグループでは全く興味のない話が繰り広げられている。そんな様子を横目に僕はスマホを眺め始める。

 

 

 

いや、嘘だ、そんなものは。
言い訳だ。保身なのだ。
所詮は自分が傷つかないようにしているだけ、俺は悪くないんだという詭弁だ。
自分が考えていること、感じていることを悟られたくなくて、1人で行動して、話しかけられたときは同調して笑顔の仮面を装着する。話しかけることさえ諦めているし、外出に誘ったこともないお前が何を言っている。俯瞰したような気になって、批評して、浅ましいな。

 

一人では生きていけないと分かっているが、一人で生きていたい。

11

3年ほど前に福島県浪江町に足を運んだ。そのとき「復興なんて始まってすらない」と感じた記憶がある。止まった時計、瓦礫であふれた建物、人は全くいなくて、津波が来たと思われる部分は文字通り何もなかった。ただ片付いた空間がひろがっていた。それでも、きっとここまで瓦礫を処分するのにも有志の方々が少しずつ少しずつ時間をかけて進めてきたのだろう。妙に綺麗な町は少しばかりの重機の音がするだけだった。何もなかった。

先ほどテレビをつけたらNHK以外はどれもバラエティ番組だった。少し前までは特番がよく組まれていたのに。風化しつつあることを痛感した。しかし、コロナ禍になってしまった今も避難生活を続けている人は想像より遥かに多い。

11年前の今日、僕が土木工学を志したきっかけが生まれた。4月からこの志にもとづいた地に身を移す。初心忘るべからず、自分の中では風化させずにいたいと思っている。

明日仙台に行く。何か得られればと思う。

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