かかびろぐ

大学3年生から書いてます

大学卒業を控えて思うこと

来月大学を卒業して、春から新しい場所で生活を始める。4年間という大学生活でずっと願い続けていた「早く終われ」「さっさと卒業したい」という気持ちは今になって随分と弱くなってしまったから、自分は相変わらず愚かだなと思う。
社会は4年前と大きく変わってしまって、思い描いていた大学生活を過ごせた人はきっとごくわずか、後悔の残る人が多いことだろう。ちなみに僕自身は英語とか数学とかひとつくらい誰にも負けない分野を磨けば良かったかなと思う程度で、まあ満足している。

ふと高校生の自分と今の自分の能力はあまり変わっていない気がして、社会に置いてきぼりにされた感覚を抱く。ただ、価値観は変わったようだ。入学当初何を望んでいたか思い返すと、どれも「他人から認められること」を優先した空虚なものばかりだ。結局称賛されるようなことは何も成していないが、この4年間で"何者にもなれていない自分"を認められるようになった。人に支えられ、応援されていることをありがたいと感じられるようになった。
4年前何もなかった部屋にはモノが散在している。新しい生活に不安と孤独を感じて泣いていた日は遠い昔のようだ。バイトに追われて落とした単位は、自分の限界を表す大切な証だと今なら思える。自分がどういう人間なのか、少しわかった気がする。
4年目があるというのは大学の良いところだろう。中学や高校と同じように3年間なら、時間が経てば卒業という繰り返し作業の延長だ。1年間の執行猶予の中で「最後」を反芻し、やり残したことを通じて「自分」を認識する。後悔がないように、自分が本当にやりたいことを考えられるように。

昔の自分に何か伝えられるとしたら、何を言うだろうか。少なくとも「何とかなるよ」と声をかけたい。

こどもの頃は

こどもの頃は知らないものばかりで、音楽番組や時代劇が全く面白くなかったのを覚えている。特に紅白歌合戦なんてのは両親や兄弟は楽しそうに見ていたが僕には本当に退屈で、同時間に放送されているガキ使の方を観ていたかった。偉人と一般人の文章の区別なんてつかないし、ピカソの絵なんて意味が分からないし、原爆ドームを見ても壊れた建物にしか見えなかった。しかし今はもう種田山頭火の型破りな点やキュビズムの芸術性がわかるし、負の遺産を理解できる。
「こどもの頃は毎日が楽しかった」なんて文言を聞くたびに、自分の中に疑うような気持ちが芽生える。少なくとも僕は毎日を退屈に感じていたし、音楽や大河ドラマなどのコンテンツを楽しめている大人が羨ましかった。毎日が楽しかっただなんて思い出を美化しているような気がしてしまう。

成長するにつれて見える世界は変わっていき、物事を多角的に把握できるようになる。そこには自分の知識と経験を反映させて解釈する面白さがあって、僕は大人になってからの方が楽しみが増えると考えているいる。もちろん、こどもの頃は立場の差とかなく様々な人と無邪気に楽しめる面白さがあった。しかしそれは単に、こどもにはこどもなりの楽しみ方があって、大人には大人なりの楽しみ方がある、ただそれだけだ。
だから僕らはいつまでもこどものまま、無知のままではいられない。大人になるということは知識と経験を重ねて学んでいくということだし、僕らの人生に深みを与える。多少勉強をしたことがある人なら身に覚えがあるだろうが、勉強では最初の基礎的な部分よりも奥深くかなり専門的な内容に触れたときに「おもしろい!!」と感じる。言い換えれば勉強がつまらないのは最初が面白くないからで、そこでつまずいているとその先にいる人とぐんぐんと差が開いていく。別にそれ自体は悪いことではないが、長い人生のところどころにある”面白い瞬間”に気づけないのはもったいないと思わないか。

 

田舎の学問、京の昼寝

田舎side

比較的田舎で生まれ育ち、小さなころから高校入試を迎えるまで公園でよく遊んでいた。入学した高校は地元では称賛される程度の目立たない学校で、周りは田畑で覆われていた。収穫の時期が終わるこのくらいの季節は下校時に焼畑の煙が通学路に流れこむのどかな場所だった。僕は気に入っていたが、周辺に高い建物は何ひとつなく、はるか遠くの山や夕焼けがはっきり見えるような平坦なところだった。

「あなたたちはこの土地に住み、学んでいる時点で、都会の高校生に勝ち目がないのです。」

これは高校三年生の学年集会で主任の先生が発した言葉で、強烈に記憶に残っている。高校生クイズに出てくる高校は東京や京都周辺ばかりでこの事実には薄々感じていたものの、はっきり言葉にされたことで心底悔しくなった。 駅前には河合塾も東進もあるし、本屋で参考書を買いそろえることもできる。それでも僕たちは関東や関西に生まれてない時点で限界があるというのだ。どれだけ僕たちが努力したところで、首都圏のトップ層には及ばない。環境が違うから。

中学受験の概念なんて存在しないし、成績上位層は塾に行ってない学生の方が多いとか首都圏ではそう起こりえないだろう。塾に一切行かずに、公立中から県立高校に進学し、地元の国公立大学に合格すれば、恐らく近所の中でヒーローになる。しかしそれもきっと首都圏と地元とでは捉え方がまるで違う。

 

京side

就活の情報集めは簡単だ。1dayインターンに行けばいい。大学の課題があるが土日をうまく使えば20社くらいは訪問できる。合説だってちょっと距離があるものの気軽に行ける。一度に多くの企業を比較できて効率が良いから楽だ。好きなアーティストの個展も気になる美術館の企画展も都内だ。このまえ丸の内周辺で印象派の歓談会があると聞き、文学・芸術系の社会人サークルに参加した。多くの大人が自分と異なる多角的な視点を持っていたり、幅広い知識で考察していたりと、全くの畑違いの自分はただ無知をさらしていた。それでもみんな本当に寛容で、このくらい知見も余裕も持った大人になれたらいいな、もっと勉強したいな、と自省と希望を抱いて帰路についた。小一時間で帰宅した。

こちらに引っ越してきてから行動を起こすハードルがかなり下がった。東京やその周辺には探せば”本物”がある。芸術だって学問だって、海外からゴッホルノワールが来るのだっていつも決まって東京近辺だ。しかもその近くには必ずその分野に先立って詳しい人がいる。そういう人と話してみると自分の知らない世界が、生き方が、価値観があって教科書では得られない経験がある。

成長とか経験とかそんな美辞麗句を並べるわけではないが、少なくとも地元にいたら得られていなかった新たな広がりは確実に存在する。「これが環境の違いか」と妙に納得してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

受験のみならず大学生、社会人になってからも田舎と京の格差がある。いやむしろ全国で参考書が出版されている受験の方が公平と言えるかもしれない。海外で有名な店舗が日本初上陸するのも、大好きなアーティストのコンサートも、五輪や万博のような大規模なイベントも、5Gや水素ステーションのような新技術が導入されるのも、多くが東京や大阪だ。

田舎で学ぶことは都で昼寝をするのと同程度だという意味のことわざは、地方が発達した現代では以前と異なる側面において顕在で、今後この先も形は変えながらも残るだろう。大きな集団の中で学問や技術、芸術が発達していく構造的なもの、また市場の規模や多数派による優位性。これに魅力を感じた人間がまた集まり、今後さらに一極集中が加速する。

だからと言ってなんでも京の方が優れているわけではない。学問を究めるだけなら必ず、絶対、確実に京の方が良いが人間の生活はそれだけではない。衣食住や気候、自然とのかかわり、宗教観や土着の文化、人間関係などすべてひっくるめれば田舎の方が住みやすい人は多いはずだ。テレワークが急速に浸透し、学問や仕事の在り方が見直されている今だからこそ、各個人ひとりひとりが「自分の住みやすいところ」を探すべきだろう。

性別へのアンチテーゼ

「30歳までには結婚したいんだよね」
先輩はこう言って、かびは?と聞いた。

僕は特にそういうのはないですねと答えてから、少なくとも今はとだけ付け加えた。

願望がない感じ?…いやそういうわけでもないと思います、多分。…今の子は?…どうですかね、ちょっと想像が難しいです。…そうなんだ。
大学生になってからしばしばこのような話になるが僕はこれがどうも苦手で仕方がない。何歳くらいまでに?今付き合ってる子とは考えてるの?願望とかないの?

誰もがそれをしなくちゃいけないのか。反吐が出る。

 

さすがに言い過ぎだが、実際のところ僕は性別というこのシステムが時折心の底から嫌いになる。

理由は2つあって、そのうち1つは「男女2人でいること」が特別な意味を持つからだ。

社会通念とか固定概念では「人間は男女でペアになって」「いずれは結婚して」「パートナーと共に子どもを育てる」。これは男女2人であることが重要だし、生物的にも同性同士では成せない。近年では社会全体が変化して多様性をめざしてはいるがそれも根本的な解決ではなく、生物的なシステムとしてはこの先何も変わらないだろう。

誰が決めたんだこの縛り。これゆえ「男女2人」の状態が意味を持ってしまう。異性と2人でいるとか異性を誘うとかそんな行動の価値は同性の場合と同じであってほしい。生物の三大欲求にまで含めるほどの本能的な仕組みに基づいてつくられたこのアルゴリズムが憎い。

 

2つ目は、「何もしないと波が立つ」ことである。

一昨年姉が結婚してから、姉より1歳上の地元の兄は「結婚は?」「相手はいるの?」など周りに言われるようになっている気がする。普段会わない僕の目にそう映るということは、きっと相当数言われているのだと思う。それこそ冒頭の先輩のような発言が周りで増えていることだろう。

付き合う相手や結婚相手がいなければそれはそれで周りにとやかく言われ、場合によっては仲間外れにされるだろう。結婚はステータスか何かだと思っているのだろうか。

しかしもし現状ステータスとしての意味が強いなら、誰か僕と結婚しませんか。都合が悪ければそのあと適当に離婚でもしましょう。それでも既婚というステータスが残るので多分未婚よりはマシじゃないですか?

まあそれこそ波が立ちそうだが、個人的には割とありだなという気持ちが否めないからこれは熟考の余地がある。と思う。


短いがこれで話は終わりだ。

最後に、僕自身の性自認は多くの人と同様に、男性/女性のうちの男性である。多様性には肯定的だからジェンダーレスとかLGBTQとかは受容できると思うけれど、それ以前の「性別」の存在に嫌悪感がある。解決するんなら身体についてる部品なんざ切り捨ててもいいとまで思っている。

 

異性の友だちが持つ「女性ならでは」の意見とか視点に日頃救われることも多いから、それは感謝している。だがそれは正確には「女性ならでは」のものではなく「女性という社会的立場ならでは」の意見や視点だ。だからその区別されたカテゴリは「性別」である必要はない。

ニューハーフや女装家がご意見番になりやすいのが良い例だ。美輪明宏から始まり、近年ではマツコ・デラックスミッツマングローブが鋭い視点で意見を述べているのはきっと見たことがあるだろう。あれは「社会的立場」の違いが背景にある。

 

文明が発達して社会全体が大きく変容しているのだから今までの慣習に懐疑的な視点を持ってもいいだろう。少なくとも僕はこのパラダイムに違和感がある。

しかしもしかしたら「この人と結婚したい」と思える方に出会えたら考えが変わるかもしれない。そのときはまたそういった記事を書くと思う。

将来の夢へのアンチテーゼ

「将来の夢」が昔から定まっていた人はすごいのか

小学生の時点で「将来の夢」を掲げていた人はそれだけでなぜか褒められていた記憶がある。

僕は小さなころから興味が様々なことに向かうタイプだった。良く言えば「好奇心旺盛」だが、悪く言えば「飽きっぽい」とか「物事を極めることが苦手」とかが当てはまる。だから僕はやりたいことはたくさんあっても将来の夢は全く定まらない子どもだった。宇宙飛行士や漁師になりたいと言っていた1年後には空中に数式を羅列する天才物理学者に憧れ、図工で褒められて彫刻家に憧れ、小説を読んで酪農に憧れ、薬学に憧れ、時計職人に憧れ、、、思い出せるだけでも10個くらいはそのようなことがあった。だから僕は「子どものころの夢は何でしたか?」と聞かれると答えに困ってしまう。

しかし、世の中には子どものころの夢をそのまま叶えている人も決して少なくないようだ。古い付き合いの身の回りの友人も、学校の先生や調理師や保育士などずっと志していた夢のひとつを今にも叶えようとしている。凄いことだ。将来の夢どころか大学の学部さえ直前まで迷い、結果的に「お前は学部を間違えてる」と度々友人に揶揄されている僕とは大違いだ。

だが彼らを手放しで凄いとは言えないのではないかと最近感じている。様々な業界や職種に対する自分の適性や希望、今後の展望を鑑みて判断したのであれば何も言うことはないが、実際にはそうでもないような気がするのだ。嫌な言い方をすれば、いわゆる「脳死」で「自分は〇〇になるんだ」と思い込み続けてきた結果ではないのか。本当に大海のように目前に広がるたくさんの選択肢の中から熟慮して、それでもなお他の何にも負けずに揺らがない選択だったのか。もちろん中には「そうだ」と胸を張れる人もいるだろうが、必ずしも全員が全員当てはまらないのではないかと思っている。

将来の夢が定まっている人の共通点

僕の感覚としては早いうちから将来の夢が定まっている人ほど真面目ではある。ただ同時に周囲の人間の言葉や風潮に同調しているためリスクを取ることはなく、周りが認めてくれるラインで妥協しがちであると思う。そして特に自分を客観視する力が弱く、見識を広げるための積極性や読書にかなり疎い。

憧れで語れるような職業はひとつもないのだから、「将来の夢」なんて多くの場合は所詮偶像だ。たくさんの知見に触れて「そんな人間がいたのか」「自分もこうなりたい」という積み重ねの中で生まれた興味や志をもとに将来の夢が形成されていくべきなのに、安易に子どものうちから「将来の夢」を掲げさせて周りが称賛する風潮は人生のミスリードになりかねない。

人生の選択

自分が一度決めたことを曲げるのは大変だ。多くの人はそれが時間と労力の無駄だと無意識に感じているし、特に将来の夢や大学の学部なんてそう簡単に変えられるものではない。しかし価値観は時間が経つにつれて変化していくはずであるし、「昔から好きだったけど今はもっと楽しいことを見つけた」という"新たな発見"にまだ出会っていないだけでそれはごろごろとその辺に転がっているはずなのだ。

そして現代では仮装通貨取引とかドローン操縦士とか職業自体はたくさん増えているし、今後はリモート医療従事者だとかAI弁護士とか出てくることが容易に想像できる。それなのにまだ社会を全く知らない小中学生の時代から将来の職業をひとつに絞ることは危険ではないのか。誰か周りの大人が他の視点も持つように声掛けしていくことが必要である。

だから頑なに「弁護士になりたい」という子どもがいたら僕はまず引き留めて、話を聞きつつ、今後はAIが弁護士に置き換わるかもしれない、本当に弁護士ではないといけないのか、昔はよかったけれど今後はわからないなどと質問するだろう。そのとき「弁護士になりたい自分は時代が悪いのか」という意見が出るかもしれないが、ああそうだ、そんなものだと僕は答えると思う。なぜならば僕自身もそうなのだから。僕は可能ならば打製石器をつくる仕事がしたかった。ひたすらに石を打って鋭利にしていく仕事、鍛冶屋でも良いかもしれない。しかしどちらにしろ時代が合わないだろうし僕には大局的に見て鍛冶屋になれるほどの覚悟と興味はなかった。そんなもんだろ、やりたいことと現実性を比較する天秤がしっかり仕事しなくちゃ意味がない。

夏期講習と僕

僕のもとにはまだ来ていないが、多くの学生には夏休みが始まったらしい。アルバイト先の塾でも夏期講習が始まり、担当している中学生の中にもメラメラと闘志が燃えている子がいることに気づく。日々の勉強の記録を怠らず、毎日を計画通りにこなしている様子は、当時の僕には到底できなかっただろうなと思わされる。

 

先日社員が中学二年生に「もうすぐ7月も終わりだけど学校の宿題は終わりそう?」と圧をかけていた。ほとんど終わった様子のその生徒は残ったいくつかの宿題を説明しているようだった。僕は内心で褒め称えつつ、そのやりとりをどこか冷めた気持ちで横目に見ていた。そして社員や生徒が理想を掲げて頑張ろう!と意気込んでいるのを見るたびに自分は冷ややかな視線を少なからず向けていることに気がついた。

 

高校受験

大学生も終わりに近づいて思うことではあるが、高校受験なんて所詮大学受験の練習みたいなものであって大して気負う必要もないのではないだろうか。もちろん頑張った経験や部活と両立させた成功体験は増やせるものならできるだけ増やしたほうが良い。しかし、「大学生になって初めて出したレポート」くらいには高校受験はどうだっていいのではないかと思う。本気で取り組むべきではあるが失敗したって構わないし、それによって精神的に追い詰められる必要なんてない。人生が終わるなんてもってのほかだ。

もし先ほどの少年が先生や親の顔を窺って塾に通っているのならば、高校受験なんてなくなってしまえと僕は心から思うことだろう。いや、もしかしたら怠惰な自分だけが「勉強=やりたくない」という等式を心に持っているだけで、進学塾に通うような子は自ら進んで勉強をしているのかもしれない。きっとそうだろう。そうだと願っている。

 

ちなみに僕は高校受験に失敗した。というかそもそも挑戦していなかった。11月まで続いた駅伝部で無惨な結果だったことや内申点が低くてそもそも受けられる高校が限られていたこと、トップ校を志望している人間の大半と再び同級生になりたくなかったことが原因だと思う。だから僕には高校受験なんて成功体験もクソもない。

 

「良い子」と「素直な子」

話は変わるが、大学以降で大切なことは「主体性」だとよく言われている。積極的に知見を広げたり興味のある場所に足を運んだり、自分の生活を自分で舵をとることが肝要である。言わば、大学生活は孤独で自由なのだ。

しかし高校まで親や先生の言う通りに従ってきた「良い子」の判断軸は、「自分がやりたいこと」ではなく「親や先生に褒められること」だ。対外的には「素直な子」であっても、自分に対して素直になれていない。自分軸を他人に預けてしまっている。

このタイプの中には自己主張が弱いものもいるが、厄介なのは善悪の判断は他人任せ、自分の行動もどこか建前として他人からの評価を気にしている者だ。「自分」という一番身近なたったひとりの人間としっかり向き合っていない、対外的なその態度が心の底から気に食わない。

 

もちろん先人の言うことに従うのも大事である。しかしこの仕事を始めてから、反抗的な生徒の方が頼もしく見えてしまうようになったのはきっと気のせいではない。少なくとも自分の意思で物事を考えている姿勢が感じられるからだ。僕たち講師の助言を素直に受け入れる生徒の方が扱いやすいのは事実であっても、従わない生徒を否定することはできない。

 

きっと僕は反骨精神を持ちながら先生になったのだろう。きっとそうだ。自分はいつまでも先生や学校といった閉鎖的なヘゲモニーに盾突いているのだ。

この世界で一番教師に向いていない人間が、塾講師をしているのだなと四年目にして気づいた。

自動思考をやめたい

無意識のうちに及ぶ考えを自動思考というのですが、時折これが自分でも辟易するような内容に及ぶのでやめたいという話です。

何かを見たり聞いたりした瞬間に思うことが非人道的であったり倫理に反していたり人を傷つけるようなものであると、本当に自分に嫌気がさしてきて罪悪感に苛まれます。そういった自分の中のルッキズムや差別的思考、人格否定は表面に決して出さないようにしているものの、時には恐らく周りの人を傷つけてしまっていることがあるのだろうなと思います。しかも自動思考の大半は思ってもないことばかりで(ややこしい)、どこかで聞いたことのあるような品のないセリフがポンと頭に浮かんでくるようなものです。うまく使えば斬新な閃きに貢献してくれるのでしょうが、はてさてどうしたものでしょうか、自制できないのが自動思考なので普段触れるものから変えていく必要があるんでしょうね。治すにはきっと普段から丁寧な言葉遣いを心がけたり、平等を謳う本に触れたりしていく必要があるのだと思います。

でももしかしたら特に何もしなくても良いのかもしれません。感情と理性が日常的にバトルしていて、たとえ酩酊状態になっていても理性が勝ち続けているのであれば大丈夫!くらいのスタンスでとりあえずは良しとするみたいな。飲酒したときや不健康な生活を送っているときなど、理性が弱くなる瞬間を自分で予め気づいておくことも大事かもしれませんね。